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Steel Tormenter
Chapter:1

第2話 始まりの日


 その日は、免許を取って一週間しない初めての休みの日だった。
 そもそも大学生は休みしかないだろう、と思っているのは大きな間違いだ。
 休みしかないのではなく、ゼミの時間を自由に決められるだけなのだ。
 だから、彼のように真面目に大学で研究をしている場合には、たまの休みが不定期に現れる……そういう印象を持っていた。
 そんな数少ない休みを利用して免許を何とかして獲得。
 さて――どの車に乗ろうか。
 何とか持ち合わせもあるし親が工面してくれている。
 ベンツとかBMWのような物は駄目でも、普通の中古車なら全く大丈夫な金額だ。

 だがここで大きな問題が起きた。

 そう、問題は金でも時間でもないのだ。
 彼は別に車に乗りたくて免許を取ったわけではなかった。
 だが、この社会は身分証明書の代わりになる普通自動車免許(第1種)が、或る意味社会人としての最低限度の証明のようなものだから。
 簡単な理由で免許を取りに行って、ふと気づいた。
 自動車の免許を取るということ、それ自体が理にかなった社会のシステムであると。
 そしてわざわざ金をかけて取った免許があるのに、車の運転をしなければそれが衰えてしまう事が惜しかった。
 どうせ車を運転しなければならなくなるなら、巧い方が良いに決まっている。
 彼は免許を取ってすぐ車が必要になる――事になった。
 そう問題は車に興味がある訳ではないのに、車を買おうとしているところにあった。

 彼は、車に価値を持っていない事が一番の問題なのだった。

「じゃあ、どんな風に車を使いたいかから考えた方がいいわよね」
 だから中古車屋の店先で店員らしき女性に捕まった時、何をどう答えて良いのか判らなかった。
 そもそも――そう、免許を取ったから練習用に、などと答えていいものかどうか。
 車がなくても大丈夫な生活をしていると、車を欲しいと思わない物で。
 彼の名前は槻御原綾(きみはら・りょう)という。
――ううん
 話を聞きながら、つなぎ(整備服)を来た女性という違和感にまず惹かれてたりした。
「どんなふうに?」
 だから取りあえず、彼女を見ながらオウム返しに答えてみる。
 長いストレートヘアの彼女は一度目をぱちくりさせてにこっと笑う。
「そう。うーん、たとえば荷物を沢山運びたい、とか、週末デートしたいとか」
 さすがに荷物を運ぶような用事はない。
 有ったとしてもワンボックスという選択肢はないだろうと思う。
 稜は首を傾げる。
「ん?だったらセダンかな?その様子だと会社を言ってもぴんとこないでしょ」
 稜の様子を見た彼女は、先読みしてそう言うとくるりと車を見回す。
「ほら、あの四枚ドアの奴とか」
 彼女が指さしたのはどこにでもありそうなトヨタのクラウン。
「一番車らしい車だし、何にでも使えるけど……問題はあんまりおしゃれじゃない事」
 たしかにクラウンではデートは出来ない。
 店員が本気で困った顔で首を傾げるので稜はわたわたと焦る。
――んーっ、教習所で見たような車は安心できるけど
 でも確かにそんな車に乗るのもどうか。
「恰好で決めても良いんですか?」
「え?恰好は大事な要素でしょ?」
 と素で返して店員――風香は慌てて両手を振る。
「ううん、要素は幾つかあるけど。恰好、パワー、使用用途。どれを選んでも間違いじゃないわ」
 恰好だけの車。パワーだけの車。使用用途だけに絞った車。
 必ずどこかで妥協しなければならないが、どれかに絞れば選択はかなり楽になる。
「……」
「それは勿論パワーだ!」
「しゃっ」
 思わず声を裏返して振り返ると、風香の真後ろから覗き込むように社長がいた。
「どんな車に乗るのも結局は自分次第。でも、若くて初めて車に乗ったなら、それ以後乗れないような車に乗るのはお薦めだろう」
 にやっと笑って風香の両肩をぱんぱんと叩く。
 彼女の乗っている車も、或る意味『普通乗れない車』の部類に含めても良いかも知れない。
「あのですね、社長」
「大体最近、Bbとかミニバンとか、流行で売れるのは良いがごてごて飾っちゃってるだろう。あんなのは」
 綾はあっけにとられてぽかんと彼を見ている。
「ちょっと社長っ」
 風香は両手で彼を事務所の方へ押し戻しながら、稜の方を振り返って苦笑いを見せる。
「社長の趣味は聞いてませんってばっ」
「しかしだなぁ」
 素直に押し戻されながら、社長は器用に顎を撫でて首を傾げる。
「お客にお茶ぐらいださないかふーかちゃん。店先で立ち話なんかしてたら注意の一つもしに行くだろう」
 風香、二度目の正論に言葉を詰まらせる。
「……判りました」
 そう言って社長を押すのを止めて振り返り――もう一度社長の方を顔だけ向けて眉を吊り上げる。
「でも社長?変な車を勧めちゃ駄目ですよ!」
 ぽかんと立っている客の元へ戻る風香を見ながら、社長はもう一度首を傾げた。
「そんなに変かなぁ」
 後頭部を激しくかきながら、彼は事務所に向かった。
 風香は、先刻の出来事を取りあえず誤魔化すつもりなのか、にこにこ笑いながら綾に駆け寄る。
「ごめんなさいね。取りあえず入って。お茶がいい?コーヒーがいい?」
「あ、お茶を」
 まるで手を引っ張られそうな勢いで店内にはいるのを勧められて。
 綾は、初めてお客と認識された物だと理解した。

 通された店内は落ち着いたクリーム色で纏められていて、清潔感があり無機質さを感じさせないものだった。
 何処にでも或るオフィス。逆に言えば工場の事務室がここまで綺麗だというのは。
――あ、女性の御陰かな
 それは偏見である。ほぼ間違いないが、これは社長の趣味と思想を反映していた。
 『女の子でも抵抗のない職場。お客を萎縮させない清潔さ』が工場に必要だと。
 ともかく、まだ整備服のままでお茶を持ってくる風香が彼の前に座る。
「うちの社長、結構趣味偏ってるから耳貸さなくていいから。私Bbとか好きよ。ガラスにはめ込んだスピーカーとかあるのよ」
 彼女はテーブルの側にある雑誌入れのようなところから、幾つも覗くパンフレットを出して開き始める。
「あ、あの。僕まだ免許取ったばっかりで、できればマニュアルミッションの車が良いんですが」
 パンフレットを開く手を止め、風香の顔に浮かぶ微妙な表情。
 社長の耳がぴくんと動く。
「……あれ?」
「最近はマニュアルといえばスポーツだものね、古い車を探しに来るのは正解」
 社長が動くのを感じて先に抑えておく。
「あとは趣味とご予算だけど、おいくらぐらいの車を探してますか?」
 綾は首を傾げながら値段を提示した。
 風香の頬が引きつる。
 いや、値段としては結構高額とは言え、充分新車を買える値段だ。
 尤も新車でスポーツタイプを選ばない事を前提としている。
――うーん。確かに中古車しか選べないけど
 逆に言えば中古車は選び放題、大抵の車は買える。
「……足りないですか?」
「いいえ、そんなことはないですよ」
 そう言いながら、もう半ばやけくそ気味になっていた。
――どうしろって言うのよ
 と思いつつ、何故こんな物がここに、と思えるような資料へ手を伸ばすことにした。
 パンフレットが並ぶ棚の下、大きい事務用ファイルがある。
 彼女はその一つをつかむとかけ声をかけるように勢いよく取り出す。
 それは分厚い、古い車のパンフレットの束だった。
「いい?こういうのがクーペ。ボディはセダンに近いけど、二人乗りをメインに考えて作られた車。日本だと普通は4人乗れるんだけど」
 埒のあかない客は、できる限り種類を見せて気に入った車を選ばせた方が良い。
 この時程、社長の車趣味に感謝できることはない。
 セダン、クーペ、ハッチバックにワンボックス、果ては軽トラまで説明したところで。
「先刻パワーがどうのってましたけど……どこの車が一番パワーがあるんですか」
「あ、パワーって言ってもN/Aとターボってあるのよ。ターボの方がパワーはあるけど燃費が悪いの」
 型どおりに説明しつつ、彼女は資料を床に置いて気が付いた。
「気に入った車は見つかった?」
「……はい」
 綾はそのスタイルに惹かれる車を一台選んだ。
 いや、正確にはある一群の車である。
 直線的でもない、曲線的とも言えないその造形は、丁度90年代初頭に生まれた。
 まだ直線的な車たちが普通に走っていた、その時代に生まれた曲線美の車たち。
 現在の車より古いスタイルでありながら、今までを強く継承している為に安心できるスタイル。
 考えれば10年も前だというのに、強く引きつけられる姿。
 綾の上げた車は古いスポーツカーばかりだったが、かろうじてこの工場にもあるもので収まっていた。
「後はこれなんか良いと思ったんですよ。結構今でも走ってるでしょ」
 と指を差したのはS2000。
「でもオープンカーだし、二人しか乗れないし」
 結構趣味嗜好は、自分の知らない間に狭まっていく物らしい。
「ああ、だったら荷物は多く載る方がいいでしょう」
「でも小さい車の方が良いです。大きいとぶつけそうだし」
 小さくて荷物が入る。日本人的な発想だが、それであればハッチバックが該当する。
「ならこれとこれと……この辺かしら」
 今ハッチバックの小型車で、彼の『好きだ』と言ったデザインの車は三種類。
 CAJ4ミラージュ、EG6シビック、EP91スターレットである。
 三菱、ホンダ、トヨタの有名車種ばかりだ。ちなみに別グレードはない。
 いや、車に有ってもここにないのだ。
――どれに乗っても大差ないわね
 とは風香の言葉。
 実際ミラージュとシビックに差はほぼない。敢えて言うならスターレットが一番小さい。
 排気量も。
「スターレットは小さいけど、そんな徹底して小さい必要はあるかしら。乗りやすくて良いのはこっち」
 そう、スターレット位小さいと小さすぎて乗ってるのが窮屈になる。
 ここは二大勢力である(しかしそれも過去の栄光だが)他二台となるだろう。
「見てみる?」
「はい」
 しかし。
「あ、おい、ミラージュは売れたぞ?今停まってるが売り物じゃないからな」
「え?店長、それ」
「ほら、いつものラリー屋だよ。余計に前金置いていくだろ?」
 この時点で。
 シビックに選択肢が狭まってしまった。
「取りあえず見る分にはいいですか?」
「勿論。どうぞどうぞ」


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