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Steel Tormenter
Chapter:1
第4話 峠
近隣で有名な峠は二カ所ある。
峠だけではない。走るスポットが数多く存在する。
この近辺、富士山と金時山、箱根山が形成する幾つかの山道は攻めなくても充分楽しいワインディングとなる。
特に箱根は有料道路が数多く存在し、夜間解放される箱根スカイラインを含め走り屋ならずとも集まるスポットである。
「俺は箱根じゃ有名なドリフト野郎だったんだよ」
また始まった。
社長を除く全員がげっそりした表情になる。
当然と言えば当然――今日はこれで二度目だ。
既に夕暮れ、片付けも殆ど終わり本日最後の休憩中というところで社長がまたぶったのだ。
今日は中古車契約二台、これは結構いい数字である。
既に修理終わった車の引き渡しも完了し、彼としては上機嫌なのだろう。
「箱根ですか。今は全くそんな気配ないですけどね」
何のつもりか口を開いたのは、普段無口な弘巳だ。
弘巳だ。
そう、だから社長の目が光ってしまった。もう遅い。
「そうか?なら行ってみるか?試してみるか?最近は人数も減ったし、時刻を決めているから殆ど会えないはずだ」
峠には峠のルールがある。
それぞれローカルなルールであり、彼らはそれに沿って走ることで『峠』を守っているとも言える。
警察・付近住民にとって迷惑な行為に違いないからだ。
「ほら社長、たきつけないで。無理強いしたってよくないでしょ。それに社長も歳考えてください」
弘巳と社長の間に入るとすかさず強めに言う。
「ふーかちゃん、そうは言うが」
「ほらほら。昔話は終わりおわりーっ。社長は話を信じて貰いたいんでしょう?それは判りますから」
お茶菓子のかごを置いて、コーヒーをお代わりして、自分は紅茶を飲みながら席に着く。
弘巳の表情は判らない。コーヒーをすすっている。
「大体何年前ですかその話。今時流行らないですよ」
と言いながら。
自分の車や弘巳の車がその流行らない時代にスポーツカーという事実に苦笑する。
燃費はそこそこ、パワーがあって良く走るが荷物が乗るわけではない。
社長の嘆きは何処に反映されているのか――実際、ミニバンやコンパクトが受ける理由は幾つかある。
燃費と居住性だ。
スポーツカーにとっては憂き目を見る時代になったと言うべきか――排気ガス規制による有名スポーツカーの製造中止が最大の痛手だろう。
尤もそれらを所持する事自体が違法ではないため、またそこまで取り締まれないため、中古での売買はまだ続けられている。
「逆だと俺は考える」
だが、社長は腕組みして難しい顔をしながら言う。
「これが、最後のスポーツカーの時代なんだと。もう滅ぶしかないのか?だったら生き残りは全てその……アイアン父?オゾンホールがどうのってのを全うさせるべきだ」
「アイデンティティとレゾンテートルです。もう」
と良いながら苦笑を浮かべて。
口では否定するものの、何となくそれは理解できた。
どこかに相通ずるから同じような車に乗ってきたんだろうし。
風香は、車は乗り物であると考えていない。
車を操縦する事は、目的地に到着する手段ではない。
「……」
だが弘巳は違うようだった。
社長の言葉を聞いていないかのように黙り込み、コーヒーカップをこんこんと叩いている。
中に濃いめのブラックが波紋を描き、複雑な模様を描く。
既に湯気は立っていない。
「ふう」
風香は熱そうに紅茶を一口飲んで、くるりと周囲を見回す。
もう夜の帳は街を包み込み、きらきらと灯りに満ち始めている。
「寂しいと、思うんだがな」
彼女の視線を追ったのか社長は言う。
「今F1でもGT選手権でもそうだ。観客の入りは一時期に比べ減っている」
今も昔も、走る総数は減っていないようだが、実際にはその周囲が激減している。
バブル期を境にしたそれは、まるで流行だったかのように。
「高度経済成長の副産物かも知れませんね」
実際にはどうだったのだろうか。
お金が余ったから、車を作ったのだろうか?
風香の言葉は完全に的はずれではない――少なくともそう言う人間が車の世界を大きくしたはずだ。
レース・チューニングはお金有って初めて成り立つものだ。
だが誰も風香の言葉を継ごうとしなかった。
弘巳はコーヒーの残りを喉に流し込むと、開いたカップをひょいひょいとつまんでそのまま流しに持っていく。
「そろそろ閉めましょう」
「……ん……」
時刻は、営業時間を一時間過ぎている。
これ以上は留守電に任せるに限る。
「そうだな、着替えて、気を付けて帰れよ」
帰りの挨拶もそこそこに、社長が完全に社屋を閉じるのにあわせてコクピットに滑り込む。
R32のタイトなスペースには弘巳の痩身でも余裕はない。
だが締め付けるようではなく、包み込むような圧迫感は決して不快ではない。
高級車の大排気量・扱い易さを少し尖って見せた車――そうイメージすると判りやすいかも知れない。
設計思想はスポーツカーその物なのだが、凝ったインテリアはドライバーを誘うように鎮座する。
イグニッションに合わせて低音のエグゾーストノートが響き、R32はステアに合わせて駐車場を滑り出していった。
無言の弘巳を乗せて。
平日の箱根路は至って閑かなものである。
殆ど車は走っておらず、人気もない。そもそも観光地は夏と冬の一時期以外人がいないようなものだ。
半ば偏見であるが。
ただそれを象徴するかのように、箱根山をぐるりと取り囲む道のうち、西を通る県道は殆ど人気はない山道になっている。
国道の一部はトラックの運行が有るために、多くはないが通行量がある。
この為、県道は時間帯を選べば人気のない峠道へとその印象を変える。
時折ここに速い走り屋が来るという噂が経っても、別に変ではない。
尤もホテルや宿が乱立した観光地の一部であり、ここを全開で走る事は控えなければならない。
とは、いえ。
箱根路へ抜ける人気のない道路、ここを使わない手はない。
ぎゃ きゅるきゅるきゅる
県道は細く曲がりくねっているため、速度が上がれば上がるほどタイヤにかかる負担は大きく、しかし傾斜のせいでそれなりにアクセルを入れなければ失速する。
峠を走る難しさはこの地面のうねりだ。
特にここは高低差が激しく、上りと下りが何度も繰り返し続く。
全開するには、コース全体を知る必要がある。
ふぉぉん ふぉんふぉん おぉぉぉぉぉん……
極低い排気音が、シフトチェンジと合わせてゆっくりと低くまるで拗ねたようになりを潜める。
良く鍛え上げられたエンジンなのか、完全にアイドリングになっても決して暴れることはなく、規則正しい金属的な音を立てている。
防音のなったボディの中にまでこもりのある低音は届かず、コクピットは高級車のそれと同じ。
暗い、メーターの示すLEDのシグナルの他には――呼吸をするかのような、煙草の灯り。
紫煙は循環させたエアコンの空気が押し出すように、僅かに開けた窓の隙間から流れている。
暗い山道を抜けた場所で、鋭く抉ったコーナーの出口で赤い信号灯に照らされてその車は待っている。
今日も、普通じゃない車が普通じゃない速度でこの道を駆け下りていく。
――今夜も、多そうだな
男は煙草を灰皿にねじ込んで、窓を閉めた。